武石地域の伝承 

  武石には、沖飛魚と巣栗狭の2つのお仙ヶ淵伝承があります。

 

(その1  沖飛魚のおせんが渕)


おせんが渕


 〜滝沢きわこのふるさと民話散歩から〜     

 

武石沖、依田川飛魚の仙ケ淵の伝承を、児童文学者滝沢きわこさんが民話にされ、週刊上田(平成12年9月1日号〜23日号)に連載されました。

 

むかし武石の村に、そりゃあ気立てのいいおせんという名の娘がおったそうな。
 おせんのおとっつあんは、おせんの小さいころに病で亡くなっていた。働きもんのおっかさんは、百姓をしながら女手ひとつでおせんを大事に大事に育てたそうな。だからおせんは世の中のうっとうしさを知らずに大きくなった。
 ある夏の日のこと。おせんは武石の奥にある滝に遊びに行ったそうな。
 「まあ、なんて気持のいいとこだらず。青いもみじ葉がしぶきにぬれて、すがすがしいこと…」
 岩に腰をかけ滝壷をながめているうち、なんだか眠くなってきた。
 (こんな山奥で眠ったりしちゃいけないわ)と、自分にいいきかせるのだが、いかんせん眠い。そのうち、うっつら、こっくりと寝入ってしまった。
どれくらいたったころだろうか。おせんは夢の中で「おせんさん。おせんさん」と、名を呼ばれたもので、ハイッと返事をすると、目の前にすずし気な目をした若者が立っているではないか。
 「あ、あのう…」と、おせんが声をかけようと目をあけたとたん、若者の姿はかき消えていた。
 「…夢なのかしらん…」
 おせんは、おせんさんと呼ばってくれた若者の声と、すずし気な目の顔立ちを忘れることができなかった。
 おせんは、それから毎日同じ時刻に滝にやってきては岩に腰をかけた。すると不思議なことに眠気がやってきて、また、あの若者が、「おせんさん」と、呼ばる。返事をしようと目をあけると、やはり若者は同じようにかき消えてしまうのだった。
 (目をあければいないなんて…夢の中だけでしか逢えないなんていや。しぶきにぬれたあの人の髪をこの両の手でふいてあげたい)
 若者を恋しく思うおせんの胸の火の玉は、日に日に大きくなっていった。
 「おせんさん」
と呼んでくれる若者に答えようと目をあければ、若者の姿がかき消えてしまうもので、おせんは、若者恋しさといらだちで、とうとう寝込んでしまった。

 

 おせんのおっかさは心配して
 「おせんや、今日も、熱もねえのに伏せってるだかや」
といった。すると、おせんは急にホロホロっと涙をこぼした。
 「もしかして、恋しい人でもできたかぇ」
おっかさの言葉におせんはおもわずうなずいた。
 「うまくいかねぇんだな。…よし、ここはひとつおっかさにまかせな」
 おっかさは、娘の悩み救ってやりたさいっぱいで滝にでかけた。が、なかなか若者にあぇなんだ。ある日滝へ行く沢道で一人の若者とすれちがった。おっかさはピンと感じるものがあって、
 「もうし、失礼を承知でおたずねしやすが、我が娘のおせんを存じおりでしょうか」
とたずねると、若者はすずし気な目をむけ、大きくうなずいた。
「このごろおせんさんの姿が見えないので、心配しておりやした。あすにでも里に下り、おせんさんを訪ねてみようと思っていやした」
「そうでごわしたか、おせんは、おまえさま恋しさに伏せっておりやしてな」
「申しわけごわせん、おっかさにもご心配かけて」
と、頭を下げる若者のすがすがしさをおっかさはとっても気にいった。
「どうか、おせんの聟(むこ)になっておくれな」
「承知しやした。わしは身寄りの者がいないので婚礼の晩にわし一人で行きやす」
若者のうれしい返事におっかさの足どりは軽かった。
「おせんや、おせんの恋しいお方をとうとうめっけたよ。さあさあ婚礼の仕度しなくっちゃあ、おせん、さあ起きて、布団たためや」
おせんはおっかさの言葉に目を輝かせ、元の明るさをとりもどしたと。
 婚礼の晩、おせんの家の庭は、美しい花嫁をひとめみようとする村人でいっぱいだ。奥座敷では花嫁花聟の三三九度がはじまっていた。おせんのおっかさは着物の袖口を何度も目頭に当てて、うれし涙をにじませておった。
 ほんに幸せな晩げであった。その幸せがこれからもずーっと続くはずであったがそうはいかなかった。

 

 聟は野良仕事が嫌いだとみえて鎌を持つのもきらった。
「おせんや、なんで聟は田んぼへ行きたがらねだらず」
おっかさがこぼすと、「おっかさがそんなことを言うからあの人、いやなの。もう少しこの家になれてきたら、きっと働くと思うわ」
と言ってみるけれど、おせんは二人の間にはさまってせつなかったさ。おっかさの目をさけ、聟は家の近くを流れる川の渕にたたずむことが多くなった。それにあのすがすがしい目も曇ってきた。
 「百姓もせずのらりくらりしてられちゃあ困るわい。・・・おせんや、まさか聟は渕に住む岩魚じゃあるまいな、いやそうとしか考げぇられねえ」
「……そんな」
おせんの胸のうちはさわいだが聟は前にもかわらずにやさしかった。
が、おっかさと聟との仲は日に日に悪くなり、ある晩のこと、聟はこういった。
「おせんや、わしは百姓には向いてないようだ。おせんもわしとおっかさの間にはさまってつらかろう。ふんとにおせんをいとしく思うのは変わらないが、わしは帰ろうと思う」
 おせんは胸がつまってなんにもいえなかった。そのうち大戸が開いた。…そして閉まった。

 

 夫がいなくなってからおせんはさびしく暮らしていたがある日思いきって、はじめて出会った滝に行った。
「あんたー、どこにいるのー。ひとめでも会いたいわー。聞こえてるーこの声が」
おせんは滝の渕をさまよい歩きながら、声をかぎりに夫を呼んだ。
おせんは声のかぎり夫を呼び求めたが、その声は滝の音にかき消されてしまうばかりであった。
 いつの間にか日は西に傾きはじめた。と、滝壷に一条の美しい日が差した。その時おせんは、いとしい夫の姿を滝壷の中に見とめた。
「あんたー」
おせんは思わず手をのばすと、そのまま滝壷にのまれてしまったそうな。
 それからだ、その滝のことをおせんが渕と呼ぶようになったのは……。

 

 
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